ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」
はじめに
我々が生きる世界には、色々なかたちの「愛」があります。そしてそれを題材とした芸術作品は、これまでに星の数ほど生まれてきました。リヒャルト・ワーグナーによって作曲された楽劇「トリスタンとイゾルデ」もまた「愛」をテーマとした作品となっています。
作曲の経緯
1849年、革命運動に参加したワーグナーは政治犯としてドイツを追放されスイスに亡命しました。そこで「ニーベルングの指環」四部作のうちの2作目「ジークフリート」を作曲するも上演の目途が立たず、いったん中断してより小さな作品を書こうと考えたのがはじまりでした。ワーグナーはケルトを起源とするトリスタン伝説にまつわるゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの叙事詩『トリスタンとイゾルデ』を題材に決め、1857年に自作の台本を完成させました。トリスタン伝説とは、騎士トリスタンと主君マルケ王の妃であるイゾルデとの悲劇的な恋愛を描いた物語で、中世の宮廷詩人が語り継いできたとされています。当時ワーグナーはオットー・ヴェーゼンドンクをパトロンとし、彼から提供された家に妻ミンナと共に住んでいました。しかし2人の関係は冷めきっており、ヴェーゼンドンクの若妻マティルデとの恋愛が始まったのです。この不倫関係によって、愛をテーマとしているこの作品の創作意欲が高まったと言われています。このような過程を経て1865年にバイエルン宮廷歌劇場で初演されました。
新たなステージへ
ロマンティック・オペラと呼ばれる前作「ローエングリン」を最後に、ワーグナーは「もうオペラを書くのをやめる」と宣言しています。これはオペラを総合芸術として捉え、音楽と劇内容を融合させた「楽劇」を目指す、という意味になります。
「トリスタンとイゾルデ」は、「トリスタン和音」(後述)をはじめ、半音階進行の音楽を多用することで、西洋音楽の金科玉条であった調性音楽・機能和声を崩壊寸前まで追い込むという音楽史上に残る革命的な作品となりました。また不安定な和声を駆使することで、従来に比べ人間の内面をより緻密に表現できるようになったのも特徴と言えます。
ワーグナーにとって音楽の転機となったこの作品は、音楽史上における決定的な転機にもなったのです。
登場人物
全3幕で演奏時間は約4時間という長大な作品ですが、登場人物はそれほど多くはなく、大部分が主人公トリスタンとヒロインのイゾルデの2人の動きを描いたシーンで占められています。
トリスタン:コーンウォール(イングランド南西端)の騎士。マルケ王の甥。
イゾルデ:アイルランドの王女。マルケ王との政略結婚が決まっている。
マルケ王:コーンウォールの王。
クルヴェナル:トリスタンの家臣
メロート:マルケ王の側近。
ブランゲーネ:イゾルデの侍女。
あらすじと背景
伝説上の中世、マルケ王の統治するコーンウォールは戦争でアイルランドに敗れてしまい朝貢を余儀なくされた。トリスタンは、イゾルデの許嫁であったアイルランドの騎士モロルトを決闘で殺害するが自身も負傷してしまう。死を覚悟し海に出るが偶然アイルランドへ漂着し、特殊な医術を持つイゾルデを偽名(タントリス)で訪れるも、すぐに正体を見破られてしまう。しかしこのときすでに2人は惹かれあっていたのだった。
当の決闘により緊迫した関係となった両国は、マルケ王がイゾルデを妃として迎えることで和解することとなった。イゾルデがアイルランドからコーンウォールへ向かうところから劇が始まる。
前奏曲
トリスタンの心理的な内面を描いており、楽劇全体の魅力が凝縮した、核とも言うべき曲です。
冒頭では、「憧憬の動機」と呼ばれるライトモチーフが登場します。(譜例①)
特筆すべきは3小節目冒頭の和音がいわゆる「トリスタン和音」と呼ばれる非常に難解かつ官能的な不協和音であり、トリスタンの葛藤を見事に表現しています。従来の調性音楽であればすぐに解決されるべき音ですが、解決しないまま続いていきます。トリスタンとイゾルデの愛が永遠に実らない様を表しているといえるでしょう。
続いてチェロによる眼差しの動機(譜例②)やヴァイオリンによる魔酒の動機(譜例③)が現れます。2人の持つ様々な愛情が表現されています。
中盤では法悦の動機(譜例④)が第一・第二ヴァイオリンにより繰り返し演奏され、2人が絡み合い段々と高揚していく様子が表現されています。
頂点を迎えるや否や、情熱的な音楽は遮られ悲愴の底へと沈んでいきます。眼差しの動機が再び演奏されるもそこに活気はなく、静寂な雰囲気の中で幕が開かれます。
第1幕
舞台はアイルランドからコーンウォールへ向かう船の甲板。舵を取るのはトリスタンであるが、イゾルデを避けている。イゾルデは、なぜトリスタンに無視されているのか、なぜトリスタンではなく別に好きでもないマルケ王へ嫁がねばならないのかと激しい苛立ちを覚えている。イゾルデは「愛のない結婚は苦しみである」と嘆きトリスタンを道連れにして死のうと考え、侍女のブランゲーネに毒薬を用意するよう命じる。やがてトリスタンが現れ、互いに本心を打ち明けぬまま皮肉を言い合う。イゾルデは和解の盃と偽って毒薬をトリスタンに飲ませ、自分も飲み干す。しかし、2人が飲んだのは毒薬ではなく媚薬だった。たちまち2人は燃え上がり、熱い抱擁を交わす。船がコーンウォールへ無事到着し王の妃を讃えて幕。
第2幕
舞台はコーンウォール城内の庭。夜にマルケ王一行が狩りへ出掛けている隙に、トリスタンとイゾルデは逢引し愛の二重唱を歌い上げる。しかしそれは夜明けとともに終焉を迎える。マルケ王が戻ってきたのだ。これは側近メロートの仕掛けた罠であり、2人の不倫を押さえるためにわざと狩りに行くふりをさせたのだった。現場を目撃した王は自分の妃と甥に裏切られたと感じ、深く悲しみ呆れる。メロートは裏切られた主君のためにと、トリスタンを斬りつける。トリスタンは自ら抵抗せず重傷を負いクルヴェナルの腕に倒れる。とどめを刺そうとするメロートをマルケ王が制止して幕。
第3幕
舞台はトリスタンの故郷の城。そこで瀕死の状態となっている。重苦しく絶望的な前奏曲ののち、トリスタンは長大なモノローグを歌う。クルヴェナルが治療のためにイゾルデを呼んだことをトリスタンに報告する。すると突然トリスタンは興奮しはじめ、傷を覆っていた包帯を自ら外してしまう。イゾルデが到着してまもなくトリスタンは息絶える。イゾルデは大いに嘆き気絶してしまう。そこへマルケ王一行が到着した。ブランゲーネから事情を聞いた王はトリスタンとイゾルデを許しにやってきたが、クルヴェナルは2人を罰するために来たのだと勘違いしメロートを倒すも自身も斬られて死んでしまう。トリスタンをはじめ犠牲になった人々の亡骸の前で王が悲しみにくれる中、イゾルデは恍惚とした様で「愛の死」を歌う。この上ない歓びを感じながら、トリスタンの後を追ったのであった。
イゾルデの愛の死
「前奏曲」とともに頻繁に演奏会で取り上げられる「愛の死」(Liebestod)ですが、楽劇では最終幕(第3幕)の最終場面で歌われます。イゾルデ役の最大の聞かせどころと言っても過言ではありません。ここで重要なのは、「トリスタン和音」以降ずっと曖昧なまま解決されていなかった和音が、全曲の終結部にロ長調で初めて解決された、ということです。つまりは死によって2人の恋愛が初めて成就したことを意味します。
ワーグナーは生前、マティルデへの手紙で次のような言葉を残しています。
„憧れるものを一度手に入れたとしても、それは再び新たな憧れを呼び起こす“
„愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しない“
これこそがワーグナーにとっての「愛」であり、この楽劇全体のコンセプトでもあります。そしてそれが最も明確に投影された箇所がこの「愛の死」といえるでしょう。
不協和音から始まった二人の愛の旅路は、死をもって完結したのです。
(文責:Pc.3 K.S.)