マーラー/交響曲第1番『巨人』
概要
交響曲第1番ニ⻑調は、1884年から1888年にかけて作曲されたマーラーの最初の交響曲です。改訂魔のマーラーらしく数々の改訂が施され、最終稿に⾄るまで10年ほどかかっています。マーラーは主に歌曲と交響曲の分野で活躍しました。⼀応その他の付随⾳楽や室内楽、オペラなども作曲しましたがその⼤半は断章であったり紛失していたりと、作品は実質的に数えるほども残っていません。マーラーの歌曲と交響曲の関連はとても深く、ある歌曲の旋律がそのまま交響曲の主題に転⽤されることも決して少なくありませんでした。もちろんこの交響曲第1番も例外ではありません。彼はその⾳楽的テキストを対外的に発信するときは交響曲で、内⾯的な独⽩を⾏うときは歌曲で表しました。マーラーという作曲家について考えるときには、歌曲と交響曲を別にして考えるのではなく、それぞれの垣根の低さから相互に⾏き交う内包された⾳楽的なテキストを⾒るべきなのではないでしょうか。
グスタフ・マーラー
なおマーラーは作曲家であるとともに指揮者でもあり、実際に各地での初演は彼⾃⾝の指揮で⾏われました。なんと、彼は⽣涯で15回この作品を指揮しています。また、彼の交響曲は作品を経るごとに演奏難度が上がっていきますが、これは実際に指揮者としてオーケストラ奏者の反応や技術的限界を推し量りながら作曲していったためと⾔われています。
「巨⼈」という標題はジャン・パウルの⼩説『巨⼈』に由来します。マーラーはジャン・パウルの熱⼼な読者で、この難解で⻑⼤な⼩説を愛読できるマーラーは相当の国語⼒(?)を持ち合わせていたとも⾔えます。ジャン・パウルの『巨⼈』では、主⼈公である若く⾃由奔放な王⼦アルバーノが円満な性格に成⻑するまでのストーリーが描かれますが、このストーリーは交響曲の中⾝とは全く関係はありません。と⾔うのも「巨⼈」という標題はあくまで聴衆にわかりやすくするために後から全く関係ないものをつけたものにすぎず、実際にマーラーは「以前、友⼈たちの勧めに動かされて僕はこのニ⻑調交響曲の理解を容易にするために、⼀種のプログラムを提供した。つまり、こうした表題や説明は事後的に考え出したものなのだ。今回、それらを取り去ったわけは、こうした⽅法では全く不徹底な―それどころか的外れですらある性格づけがなされると思ったからだが、のみならず、観衆がそれによってどんな間違った道に⼊り込むかを、実際に体験してしまったからだ」と⼿紙に書いており、その標題を削除しています。
第1稿の初演は1889年11⽉20⽇にブダペストで⾏われ、⼀般的に⼤失敗であったと伝えられます。実際にブダペストの⾳楽院で教鞭を執っていたヴィクトル・フォン・ヘルツフェルトは『新ペスト新聞』に、「部分的な突⾶さを除けば、作品は⽉並みな⽔準にとどまっている。マーラーは指揮者としては有能なのであるから、作曲などというお遊びはやめた⽅が良い。」という評論を載せていますし、伝記によるとマーラー⾃⾝も「この曲はまだ何のこだわりもなく、実に怖いもの知らずに書かれている。僕は無邪気にも、これは演奏者にも聴衆にも分かりやすい曲だから、すぐに気に⼊られ、その印税収⼊で⽣活し作曲していけると思っていた。それが全く⾒込み違いであると判明したときの僕に失望と驚きのなんと⼤きかったことか!」とぼやいていたそうです。しかし⼀⽅で、初演翌⽇の新聞には「各楽章が終わるごとに嵐のような拍⼿が巻き起こった」とあり、もちろん当時は楽章間で拍⼿をすることが当たり前であった時代であったことを加味しても、必ずしも全員が否定的な受け取り⽅をしたわけでは無いことがわかります。マーラーの作品は賛否両論を呼ぶ作品ばかりですが、この交響曲第1番(当時は交響詩)も決して例外ではなかったのでしょう。
交響詩「巨⼈」
マーラーはこの作品に⼤きな改訂を合計4回⾏いました。⼩さな改訂を含めるとその数はさらに増えます。まず1889年、ブダペスト初演時は『2部からなる交響詩』と呼ばれ、標題はありませんでした(ブダペスト稿)。全5楽章からなり、第3楽章までを第1部、それ以降を第2部としていました。現在ではこの譜⾯は失われています。
次に1893年にハンブルクで初演された『交響曲形式の交響詩「巨⼈」』があります(ハンブルク稿)。これには標題がついており、構成としては、
- 第1部「⻘春の⽇々より」
第1楽章「春、終わりのない!」
第2楽章(標題なし)
第3楽章(標題なし) - 第2部「⼈間喜劇」
第4楽章「カロ⾵の葬送⾏進曲」
第5楽章「地獄から天国へ」
となっています。そして1894年ワイマール初演時のワイマール稿では、⼤まかな構成は変わっていないものの多少標題が変化しており、
- 第1部「⻘春の⽇々より」、花、果実、いばらの作品
第1楽章「春、終わりのない!」(序奏は冬の⻑い眠りからの⾃然の⽬覚めを描く)
第2楽章「花の章」
第3楽章「帆に⾵をいっぱいはらんで」 - 第2部「⼈間喜劇」
第4楽章「座礁!」(カロ⾵の葬送⾏進曲)
第5楽章「地獄から天国へ」(最も深く傷ついた⼼の絶望の突然の爆発)
となっています。この第1部の標題は『巨⼈』の前に書かれた⻑編⼩説である『花、果実、いばらの作品、あるいは貧しい弁護⼠、F・S・T・ジーベンケースの結婚⽣活、死と婚礼』に基づいています。また、第5楽章の「地獄から天国へ」はドイツ語ではなくイタリア語でわざわざ書かれていることから、ダンテの『神曲』から取られていることは明らかです。構成⾯のみならず編成⾯においても違いがあります。ハンブルク稿では3管編成、そしてホルンは4本となっている⼀⽅で、ワイマール稿では4管編成、ホルンも7本となっています。演奏上の違いもいくつかあり、特に⽬を引くものとしては、ハンブルク稿においては第3楽章(現⾏版での第2楽章)の冒頭でのスケルツォ主題の提⽰に伴っていたティンパニの削除や、コントラバスとチェロのソロで始まる第4楽章(現⾏版での第3楽章)冒頭において、チェロソロを削除して現⾏版のようにコントラバスソロのみに演奏させている点などが挙げられるでしょう。ちなみに従来のハンブルク稿の演奏としては、ヤン・ヴィレム・デ・フリーントとオランダ交響楽団のものが、また、ワイマール稿とほとんど同⼀になるように改訂が施されている、いわゆる「新ハンブルク稿」の演奏としては、トーマス・ヘルゲンブロックとNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の演奏がCDとしてリリースされています。
次に1896年のベルリン初演時は『交響曲第1番』と初めて交響曲として改訂されました(ベルリン稿)。ここで「花の章」は削除され全4楽章に、そして残った楽章の標題も削除されてしまいました。最終的には1906年から1907年にかけて改訂がなされ、これが現在の最終稿として⼀般に演奏されます。編成としてはティンパニが1セット追加されて2セットになっています。演奏⾯では、最も⼤きな変更として第1楽章の提⽰部に繰り返しが追加されたことが挙げられます。
ちなみに交響曲第2番『復活』も元々は交響詩『葬礼』を改訂したものなのですが、交響曲形式での初演が1895年なのでなんと交響曲としては1896年初演の交響曲『巨⼈』よりも早くデビューしていたのです。
さすらう若⼈の歌
「さすらう若⼈の歌」(独: Lieder eines fahrenden Geselle)は、マーラーによって1885年に作曲された歌曲集です。作曲背景には⼥性歌⼿ヨハンナ・リヒターへのマーラーの⽚思いがあり、結果としては失恋に終わってしまいますが、この曲は彼⼥へと捧げられています。なお、„ein Geselle”とは⽇本語では「さすらう若⼈」と訳されますが、実際は“マイスター”の称号を⼿に⼊れるために各地を渡り歩いて修⾏した職⼈のことで、必ずしも若者であったとは限りません。その“マイスター”になるための修⾏をしている職⼈と、新進気鋭の作曲家であった⾃⾝を重ね、いわゆる私⼩説的な意味をマーラーはこの歌曲に込めたのでしょう。
歌曲集は全部で4曲からなり、第2曲と第4曲はそのメロディーが交響曲第1番に転⽤されています。最初に作曲されたのはピアノ伴奏版だったのですが、交響詩「巨⼈」の完成後にピアノ伴奏版にオーケストレーションを施していることからもこの2作品の深い関連性が⾒て取れます。
構成としては1.恋⼈の婚礼の時 2.朝の野を歩けば 3.僕の胸の中には燃える剣が 4.恋⼈の⻘い⽬からなり、それぞれ恋⼈に去られた男の気持ちを歌い上げています。
第1曲「恋⼈の婚礼の時」では男が恋⼈を失った悲しみを打ち明けています。
以下⽇本語訳
愛しい⼈が婚礼をあげるとき、
幸せな婚礼をあげるとき、
私は喪に服す!
私は⾃分の⼩部屋、
暗い⼩部屋に⾏き、
泣きに泣く、愛しい⼈を想って、
恋しく愛しい⼈を想って!
⻘い⼩花よ!⻘い⼩花よ!
しぼむな!しぼむな!
⽢い⼩⿃よ!⽢い⼩⿃よ!
君は緑なす野原の上で、こうさえずる。
「ああ、この世って、なんて美しいの!
ツィキュート!ツィキュート!」
歌うな!咲くな!
春はもう過ぎたんだ!
歌はすべて終わった。
夜、私が眠りに⼊るときも、
私は苦しみを思うだろう!
苦しみを!
第2曲「朝の野を歩けば」では、男が⾃然の中を歩き、なんでもない⿃の鳴き声や花に美しさを⾒出し、喜びを感じます。しかし最後には⾃分の愛した恋⼈が去ってしまった以上⾃分の幸せは実現されないと気づき、絶望します。この曲は第1楽章の第1主題にほぼそのまま転⽤されています。
以下⽇本語訳
今朝、野を⾏くと、
露がまだ草の上に残っていた。
こう、陽気な花鶏(アトリ)が話しかけてきた。
「やあ君か! そうだろう?おはよう、いい朝だね!ほら、そうだろ?なあ君!
なんて美しい世界じゃないか?
ツィンク!ツィンク!
美しいし、活気に溢れてるよなあ!
なんて、この世は楽しいんだろう!」
それに、野の上のツリガネソウは
陽気に、⼼地よく、
その可愛らしいツリガネで、キーン、コーンと、
朝の挨拶を鳴り響かせた。
「なんて美しい世界じゃない?カーン、コーン!美しいものねえ!
なんて、この世は楽しいんだろう!ああ!」
そして、陽の光をあびて
たちまち、この世は輝きはじめた。
あらゆるものが⾳と⾊を得た̶
陽の光をあびて!
花も⿃も、⼤きいものも⼩さいものも!
「こんにちは、いい⽇和だね、なんて美しい世界じゃないか?
ほら君、そうだろう?美しい世界だろう!」
では、いまや私の幸せも始まったのだろうか?
いいや、いいや、私の望むものは
決して花開くことがない!
第3曲「僕の胸の中には燃える剣が」では、去った恋⼈によって⼼に鋼のナイフが突き⽴てられ、それに苦しむ男の様⼦が描かれています。そして挙げ句の果てには、⾝の回りのもの全てが彼⼥のことを連想させ、男は苦しみから⾃らの死をも願います。
以下⽇本語訳
燃え盛るナイフが、
⼀本のナイフが胸の中に!
おお、痛い!ナイフは余りにも深々と
喜びと楽しみ⼀つ⼀つに突き刺さっている。
ああ、なんと忌まわしい客なんだろうか!
決して休むことなく、
決して⽌むことなく、
昼となく、夜となく、眠っている間にも!
おお、痛い!おお、痛い!
空を⾒ると、
⼆つの⻘い眼が⾒える!
おお、痛い!おお、痛い!⻩⾊の野を⾏くと、
ブロンドの髪が⾵になびいているのが⾒える!
おお、痛い!おお、痛い!
夢からとび起きて、
彼⼥の⽩銀のような笑みが聞こえたとき、
̶おお、痛い!おお、痛い!̶
こう願った、私が⿊い棺に横たわっていたならと、
⽬が⼆度と、⼆度と開かなかったならと!
第4曲「恋⼈の⻘い瞳」では男は⾃らがいかに恋⼈の幻影に苦しめられたか、そしてその嘆きを歌います。やがて男は菩提樹の下に横たわり、救済を願いながら花びらが⾝体に降り注ぐのに⾝を任せます。この曲の後半部分は第3楽章の中間部に転⽤されています。
以下⽇本語訳
⼆つの⻘い眼、
愛しい⼈のが、
私をこの
広い世界へと追いやった。
さあ、私は最愛の地に別れを告げなければ!
おお、⻘い眼よ、なぜ私を⾒つめたりしたんだ?
いま私にあるのは、永遠の苦しみと嘆きだ。
私は旅⽴った、静かな夜に、
暗い荒れ野をすっぽりと包む夜に。
惜別を私に告げる者などいないが―さらばだ!
私の仲間は愛と苦しみだった!
街道のそばに、⼀本の菩提樹がそびえている。
その蔭で、はじめて安らかに眠ることができた。
菩提樹の下、
花びらが私の上に雪のように降り注いだ。
⼈⽣がどうなるかなんて知りもしないが、
全て̶ああ̶全てが、また、素晴らしくなった。
全て! 全てが、恋も、苦しみも、
現(うつつ)も、夢も!
花の章
マーラーが改訂を施した際に削除された楽章が、「花の章」(独: Blumine)です。これは6分から8分ほどの短くも美しい楽章で、単体で演奏会⽤の作品として取り上げられたり、CDに収録されたりすることもあります。曲の概要の部分で、「巨⼈」の標題のほとんどがジャン・パウルの同名⼩説から取られたと書きましたが、この「花の章」の標題は同じジャン・パウルのエッセイ『秋のブルーミネ』に基づいています。また、作品のメロディーは「さすらう若⼈の歌」ではなく、『ゼッキンゲンのトランペット吹き』という劇のために作曲した劇付随⾳楽から取られたものでした。なお、この劇付随⾳楽の楽譜は戦災で消失してしまい、現存していません。
曲は弦楽器のトレモロに始まり、それに乗るような美しいトランペットのメロディーが特徴的です。このメロディーは様々な楽器に受け継がれ、全体を通してのその⽢美さは、ある意味マーラーにしては随分とセンチメンタルであると⾔えるかもしれません。
このトランペットのメロディー(以下譜例)は、テンポこそ違うもののその他楽章に顔を出しており、決してこの「花の章」が無関係な独⽴した楽章ではないことが⽰されます。例えばスケルツォ楽章では主部の2つ⽬の旋律として登場しますし、終楽章に関しては再現部の1stVn.やチェロにその旋律を⾒ることができます。マーラー最初期の作品である『嘆きの歌』op.1においてもそうですが、無頓着な削除の仕⽅をしているため、全体の流れが断ち切られてしまっているのは仕⽅がないのでしょう。
「花の章」冒頭のトランペットのメロディー
曲の構成
第1楽章
この楽章は演奏時間にして16分もかかる⻑⼤な楽章で、前述の通り元々「春、終わりのない!」(序奏は冬の⻑い眠りからの⾃然の⽬覚めを描く)という標題が付いていました。冒頭の演奏指⽰はドイツ語で„Wie ein Naturlaut. “と書かれており、これは「⾃然の⾳のように」と訳されます。
楽章は序奏付きの⾃由なソナタ形式で、D-Dur(ニ⻑調/♯2つ)です。曲は弦楽器のフラジオレットによるラの伸ばしで始まります。しばらくすると⽊管楽器によって「ラ↘ミ」や「ファ↘ド」と⾔ったカッコウを彷彿とさせる4度下がる⾳形のやりとりが始まりますが、クラリネットによるファンファーレがそれを妨げるように挿⼊されます。それもつかの間、再び4度下降の⾳形が再開します。今度はバンダのトランペットによってファンファーレが奏されます。その後の3度⽬の4度下降は初めて弦楽器によって演奏されます。今度は5つ⽬の⾳で全⾳符になり、クラリネットで4度下降の短縮系であるまさにカッコウ!といった⾳形が奏でられ、それにホルンによるコラールが続きます。コラールはトランペットのファンファーレで中断されますが、すぐに再開し、その終わりを迎えるとさらにトランペットがファンファーレを吹きます。そのファンファーレにかぶさるようにカッコウが鳴き、チェロとコントラバスによるおどろおどろしい旋律を導きだします。その上で様々な楽器が様々な⻑さの4度下降の⾳形を互いに被せながら進⾏し、やがてクラリネットがカッコウの⾳形での経過句を吹くと、チェロに始まる提⽰部に⼊ります。この序奏部において登場する様々な主題は、本来ならば意味を持って暗⽰されて、主部につながるべきところをランダムに登場させており、このランダム性も⾃然の描写をしようとした本楽章の重要な要素でしょう。
ホルンのコラール(in F)
4度下降の音形とファンファーレ
チェロによる第1主題
提⽰部では、「さすらう若⼈の歌」の第2曲から取られた旋律がチェロによって第1主題として提⽰されます。本来ソナタ形式ならば、第1主題と対⽐的な第2主題が登場するはずですが、それらしい主題ははっきりと現れないまま、提⽰部は進みます。その途中ではフルートによる⿃のさえずりのようなメロディーも登場し、盛り上がりをみせます。やがてその盛り上がりも収まり、再びラの⾳の伸ばしに⼊ると、展開部に到達します。
展開部では、序奏の雰囲気に戻り、まず⿃のさえずりのようなメロディーとピッコロによるカッコウの動機が度々登場します。しばらくするとオーボエとクラリネットに4 度下降の⾳形が再び現れ、それに続くように序奏で登場したホルンのコラールの変形も現れます。やがてチェロによる新たな主題の提⽰が⾏われ、そこから徐々に活気付いて第1 主題のはっきりとした展開が⾏われます。チェロの主題も含めてごちゃごちゃと展開が進みますが、第4楽章の暗⽰が2ndVn.をはじめとして⾏われます。やがて半⾳階的に上昇する⾳形が何度もしつこく繰り返され、ついにファンファーレが爆発します。ファンファーレはホルンによって吹かれ、しまいに上昇する信号の⾳形が連続で吹かれます。この形は実際にオーストリアの軍楽において「注意!」を意味する信号として実際に研究書に載っており、幼少期の故郷イーグラウに連隊が配置されていたことからもマーラーが⽇常的に⽿にしていた信号を⽤いたことは決して否定できないでしょう。
チェロによる新たな主題(ヘ音記号)
第4楽章の暗示
「注意!」の信号と曲中の音形
再現部はこのホルンのファンファーレから始まりますが、この再現部は決して提⽰部を忠実に再現するものではなく、すべての主題は圧縮されて登場します。そのままコーダまで⼀気に突⼊し、あっけなく楽章は終わります。マーラー本⼈はこの終わり⽅について「この楽章の結末は、聴衆には本当のところ理解できないだろう。もっと効果的な終わり⽅だって簡単にできたのだろうけれど、この楽章はまったく唐突に終わる。私の主⼈公は突然わっと笑ったかと思うと、⾛り去るのだ。」と述べていたそうです。
ホルンのファンファーレ
あっけないコーダ
第2楽章
この楽章はもともと「帆に⾵をいっぱいはらんで」と標題がつけられていた楽章で、いわゆる舞曲楽章です。形式としてはABAの三部形式で、スケルツォと書かれてはいたものの、主部(A)はウィーン⾵のワルツで、中間部(B)は落ち着いたレントラーのように演奏されます。
この楽章は、2つの⾳楽作品と関連があると⾔われています。まず、冒頭の低弦によって演奏される特徴的なリズムは、ハンス・ロットの交響曲第1番の第3楽章との関連性が指摘されます。ハンス・ロットはマーラーと同時代の若くして亡くなった作曲家で、マーラーとは親友同⼠でした。マーラーは彼の作品を常に研究しており、当然マーラーはその影響を受けています。次に、スケルツォ冒頭でヴァイオリンとヴィオラで演奏される特徴的なリズムはマーラー⾃⾝による歌曲集『若き⽇の歌』より「ハンスとグレーテ」の伴奏から取られています。
ハンスとグレーテ冒頭
楽章冒頭のリズム
主部の主題は⽊管楽器によって快活に提⽰され、2度⽬はヴァイオリンとヴィオラによって同様に繰り返されます。合間に転調を挟みながら、⾳量的なサイズダウンをして主題が再び提⽰されると上⾏⾳階で⼀気に熱を帯び、そのまま終わりまで突き進みます。中間部へはホルンソロの経過句で繋がり、ヴァイオリンがグリッサンドを織り混ぜながら優美なレントラー主題を奏でます。主部に回帰する場⾯では、再びホルンソロの経過句で主部に戻ります。主部に回帰した後は、何箇所か省略されながら前に進み、畳み掛けるように曲は終わります。
ホルンのソロの経過句
中間部のレントラー主題
第3楽章
もともと「狩⼈の葬送」や「カロ⾵の葬送⾏進曲」と標題のついていたこの楽章ですが、「カロ」とは⼀体なんなのでしょうか?まずそもそもこの標題は、18世紀後半〜19世紀前半にかけて⽣きた芸術家E.T.A.ホフマンの『カロ⾵幻想⼩品集』を意識して付けられたので、ここでの「カロ」とは、フランスの版画家ジャック・カロのことです。また、葬送⾏進曲はモリッツ・フォン・シュヴァントのエッチング『狩⼈の葬列』を元ネタにしています。このエッチングは死んだ狩⼈が、⾃分が殺そうとした動物に弔われるというとても⽪⾁なもので、ワイマール初演の際にプログラムに掲載されたとも⾔われています。なおこの楽章に関してはプログラムに作曲者本⼈による「本楽章の説明には、次のことが役⽴とう。作者はこの作品の外的な刺激をオーストリアではどんな⼦供も知っている、昔の童話の本にあるパロディ的な絵「狩⼈の葬送」から得ている。森の獣たちが死んだ狩⼈の棺に付き添って、墓へと⾏進していく。ウサギたちが⼩旗を掲げ、ボヘミアの楽⼠たちの楽団が先に⽴ち、⾳楽を奏でるネコ、ヒキガエル、カラスなど、さらにシカ、ノロジカ、キツネやその他の森の4つ⾜動物、⽻のある動物たちがおどけた様⼦で葬式に付き添っている。本作品の「この部分」では、ある時はアイロニカルで陽気な、またある時は不気味で重苦しい雰囲気が意図されている。」という説明が付属していました。
「狩人の葬列」
曲はティンパニのオスティナート的なシンプルな2つの⾳の繰り返しで始まります。すぐにコントラバスソロによる、フランス童謡「フレール・ジャック」を短調にしたものが奏でられます。⽇本⼈にとっては、「グーチョキパーで何作ろう」の歌のイメージがとても強いのではないでしょうか……。このコントラバスソロが終わらないうちにチェロ、チューバなどが順番にフレール・ジャックの主題をカノン⾵に奏で始めます。やがてオーボエによってからかうような対旋律が現れ、Esクラリネットとオーボエにも登場します。ハンブルク稿ではこの対旋律について「ヒキガエルの鳴き声のように」と書かれていました。⼀連のカノンが⼀旦の終わりをみると、全く新しい主題を2本のオーボエが3度や6度でハモリながら提⽰し、その裏でトランペットが対旋律を奏でます。すると、突然 „Mit Parodie“ と書かれている、パロディー的な部分に⼊ります。ここではシンバルと⼤太⿎が突然乱⼊し、さながら軍楽隊のようになります。この部分は、マーラーがフロイトに語った⾔葉を借りるならば、「崇⾼な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」という⾳楽になります。やがて、再びフレール・ジャックの主題が回帰しますが、徐々に死に絶えるように消えます。なおここでヴァイオリンに書かれている „ersterbend“ という単語は、直訳すると「消え⼊るように」となるのですが、より正確な意訳をすると「死に絶えるように」となります。マーラーはこの単語を様々な⾃⾝の作品で使っており、例えば「死」がテーマの交響曲第9番の第4楽章の最後の⼩節にも書かれています。
冒頭のティンパニとコントラバスのソロ
オーボエの対旋律
オーボエの全く新しい主題
トランペットの対旋律
中間部では、ハープとチェロの伴奏から1stVn.のとても美しい瞑想的なメロディーが引き出されます。この旋律は「さすらう若⼈の歌」の第4曲で、男が菩提樹の下に横たわって救済を願うシーンから取られています。しばらくこの瞑想的な場⾯が続くのですが、徐々にマーラーの最初期作品である『嘆きの歌』op.1にて「死の眠り」を暗⽰する⾳形の繰り返しとともに現実に引き戻され、主部に戻ります。戻ってきた主部は幾分か省略されており、カノンの回数が少なかったり、カノンではなく強調された対旋律が登場したりします。そうして徐々に楽器も減り⾳量も⼩さくなっていき、消えるように楽章は終わります。あくまで著者の個⼈的な解釈ですが、前半は墓場への往路、中間部で安息の地(墓場)に到達し眠りにつき、後半はその墓場での埋葬からの帰路なのではないでしょうか。
中間部の新しいメロディー
「死の眠り」を暗示する音形
第4楽章
「地獄から天国へ」と標題がつけられていた第4楽章はソナタ形式に基づいており、交響曲の中で最も規模の⼤きな楽章かつ最も重要な楽章です。この楽章ではマーラーはF-Moll(へ短調/♭4つ)が地獄、5度圏でその対極に位置するD-Dur(ニ⻑調/♯2つ)が天国を表すとしており、この2つの調性の対⽴が肝となっています。また、第3楽章までと同じく、この楽章でも他作品との関連が認められます。その中で最も重要なのはリストの『ダンテ交響曲』です。『ダンテ交響曲』とはその名の通りダンテの『神曲』による標題交響曲で、地獄と煉獄について各楽章で描かれています。この作品内でグレゴリオ聖歌から取られたG-A-Cという⼗字架の動機が登場するのですが、そのAの⾳を半⾳下げてG-As-Cにした動機が交響曲第1番の第4楽章で登場し、重要な役割を果たします。
5度圏
グレゴリオ聖歌中での動機と曲中での⼗字架の動機
第4楽章はアタッカで演奏され、第3楽章で寝てしまった聴衆を起こすかのような強烈なシンバルの⼀撃とともに激情的に開始されます。6⼩節⽬からはトランペットで⼗字架の動機の断⽚が強く提⽰されます。なおこの⼗字架の動機は、いわば地獄から天国への救いの意味を持つはずなのですが、⾳楽が地獄の中にいる、つまりF-Mollで進んでいる時は常に短調で提⽰されます。そして、そこから度々思い出したかのようにこれもまたリストの『ダンテ交響曲』から取られた強烈な3連符が登場します。しばらくするとようやく完全な形となった⼗字架の主題で始まる第1主題が提⽰されます。この提⽰はヴァイオリンによる激しく上下する⾳形に伴われており、これが緊張感をより⾼めます。その⾼まりの末に、第1楽章で登場した「注意!」の⾳形が3度にわたって登場し、同じく第1楽章で暗⽰された部分に⼊ります。その⾳形を利⽤して徐々に登っていくと、再びヴァイオリンの細かい⾳符に伴われた場⾯に⼊ります。ここでは⼗字架の動機の短縮形がしつこく叫ばれながら⾳楽が進み、やがてクライマックスに達しますが、その興奮も徐々にくたびれて収まっていきます。
強烈な3連符
ヴァイオリンによる第2主題
「注意!」の音形
経過句を挟みながら、Des-Dur(変ニ⻑調/♭5つ)に転調し、息の⻑く美しい第2主題がヴァイオリンによって提⽰されます。その美しいメロディーがヴィオラに受け継がれて瞑想的に収まりますが、そこを起点に徐々に不穏な雰囲気になっていきます。クラリネットによる第1楽章の序奏で提⽰された4度下降の⾳形や、⼗字架の動機と3連符で地獄の暗⽰がなされ、G-Moll(ト短調/♭2つ)に変わると、再び激情的な部分に⼊ります。ここでも再び⼗字架の動機や強烈な3連符が形を変えてしつこく現れ、地獄の再来かと思えば、突然C-Dur(ハ⻑調/♯♭ともに無し)に変わり、ピアニッシモながらも勝利的な動機がファンファーレ的に鳴り響きます。ここで登場する⼗字架の動機も♭が取れて、います。しかしそのまま天国へ導かれるわけでもなく再び地獄に突き落とされ、C-Moll(ハ短調/♭3つ)に転調してしまいます。冒頭の激情的な部分が転調して再登場し、また地獄か……と思っているとついに勝利的なファンファーレがフォルテシッシモで鳴り響きます。しばらくしてようやくD-Durに転調し、今まで⽬まぐるしく変化していた状況に勝利という活路を⾒出します。
第1楽章からの4度下降⾳形の暗⽰
この勝利の興奮がやがて収まっていくと、第1楽章の序奏の短縮された再現がされます。マーラーはこの部分に関して、「英雄の若き頃の素晴らしい暗⽰」と述べたそうです。この暗⽰の部分はとても素朴ながらも美しい場⾯となっており、徐々にF-Dur(へ⻑調/♭1つ)に移り変わりを⾒せます。そして主題の再現に⼊りますが、なんとここではチェロにより第2主題が先に再現されています。その再現の最中に、突然ヴィオラが不完全な⼗字架の動機を強く叫びますが、これがエコーのように⼩さくなりながら完全形に戻っていき、F-Mollに戻ってしまいます。
チェロによる第2主題の再現(ヘ⾳記号)
それに始まる第1主題、そして数々の地獄に関連する主題が再現部分では⾳量は⼩さいままで、これは地獄が遠ざかったことを意味します。そうしてだんだんと盛り上がっていき、ついに満を辞してD-Durに転調します。この部分には「最も⼒強く」という意味のドイツ語 „Höchste Kraft“ が書かれており、以前は尻すぼみ的に終わってしまったファンファーレ、そして第1楽章での4度下降の⾳形を含むコラールが今度はしっかりと輝かしく提⽰され、凱旋的な勝利宣⾔が⼒強くなされます。そして、その晴れ晴れしい勝利宣⾔の輝きのうちにカッコウの⾳形を叩きつけるようにして曲が終わります。
コラールの主題(in F)
最後の1ページ
参考⽂献
- 作曲家◎⼈と作品シリーズ マーラー, 村井翔著, ⾳楽之友社
- 東京フィルハーモニー交響楽団 楽曲解説 マーラー交響曲第1番, 野本由紀夫著
- グスタフ・マーラーにみる声楽とオーケストラの世界 ―素材の共有から⾳楽の統合へ―, ⼭本まりこ著
- GustavMahler.com, http://gustavmahler.com/symphonies/mahler-symphony-1.html
(⽂責: Vn.3 S.M.)