スメタナ / 連作交響詩「我が祖国」全曲解説 -1 概要
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はじめに
先週はコロナ後初のゴールデンウィークでしたが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。久々に家族で旅行に行ったという人も多いのではないでしょうか。私は楽器練習の合間にいくつかコンサートに足を運びました。特にサントリーホールで行われたウィーン少年合唱団の公演は素晴らしかったです。「天使の歌声」に心を打たれ、本当に天国にいるようなひと時でした。
プログラムのラストはあのヨハン・シュトラウスⅡ世の「美しき青きドナウ」でした。この曲を無くしてウィーンを語ることはできません。19世紀にハプスブルク家の治める帝国だったオーストリアが衰退しつつあった時期に、ウィーンの人々に希望を与えた曲であり、今でもオーストリアの「第2の国歌」として語り継がれています。
こういった「第2の国歌」は世界各国にあります。先週は英国のチャールズ国王の戴冠式も話題でしたが、エルガーの「威風堂々第1番」は愛国歌として歌詞がついています。(個人的にはチャールズ国王がウェストミンスター宮殿を後にする時に流れた第4番の方が好きですが、これも英国の人々にとって大切な曲であることに変わりはないでしょう。)ESコンで序曲を演奏する歌劇「ナブッコ」に登場するヘブライ人の合唱(序曲にもメロデイーが登場します!)も、イタリアの「第2の国歌」で、統一運動の最中から熱狂的な人気があったという伝説もあります。フィンランドの「フィンランディア」、ドイツの「歓喜の歌」、アメリカの「ゴット・ブレス・アメリカ」「星条旗」などもそうでしょう。日本では「蛍の光」「故郷」などがこれに近い存在でしょうか。
そして、「美しき青きドナウ」と同じ時代、帝国時代のオーストリアの支配下にあったチェコで誕生し、今でもチェコの人々の心に息づいている曲が今回7日間に渡って解説する連作交響詩「我が祖国」です。
チェコの人々の「心のふるさと」
さて、本日5月12日は、実はスメタナの命日です。この日は毎年、チェコ最大の音楽祭である「プラハの春」の初日となっており、必ずスメタナの「我が祖国」の全6曲が最初に演奏されています。
連作交響詩「我が祖国」は1883年、スメタナが59歳の時に発表された作品で、自身の出身であるボヘミア(チェコ)の郷土色豊かな6つの交響詩をまとめたものです。
祖国チェコの風景や伝説などが題材とされていますが、単なる情景の描写だけではありません。祖国への熱い想いや、チェコ民族の勝利が華々しく歌い上げられており、だからこそ現代でのチェコの人々にとって重要な意味を持つ曲、「心のふるさと」と言える曲なのです。
祖国への想い
スメタナが生きた時代、ボヘミアが長らくハプスブルク家のオーストリア帝国の支配下にあったことは前述した通りです。当時の公用語はドイツ語で、スメタナが高齢になるまでチェコ語を話せなかったというのは有名な話です。彼が24歳の年、1848年にはフランスの二月革命やプロイセンの三月革命の影響を受けてオーストリア帝国に抑圧されていた諸民族の独立運動が各地で一斉に起こりました。ボヘミアも例外ではなく、スメタナ自身も独立運動に加わっていましたが、チェコ民族の革命は失敗に終わってしまいます。その後も彼はピアノ学校を開いて名声を得て、しばらくは順調な日々を送っていました。この間に結婚もし、幸せな家庭を築いていました。しかし、相次ぐ娘の死や作曲家としての評判の低迷などを受け幻滅し、1856年には祖国を離れる決断をします。スウェーデンを拠点に活動しピアニスト、作曲家として多くの成功と失敗の経験をしましたが、「祖国チェコで成功をおさめる」という彼の悲願は変わりませんでした。1861年にチェコ・オペラの本拠地としてプラハに仮劇場の建設が発表されたことを好機と見た彼はプラハへ戻り、この劇場のための歌劇を作曲します。「ボヘミアのブランデンブルク人」「売られた花嫁」の2作を続けて発表し、前者は失敗したものの後者は好評を博しました。序曲をはじめ多くの曲が名曲として語り継がれている、彼の代表作です。
連作交響詩「我が祖国」誕生
また、彼はリストから強い影響を受け、スウェーデン滞在中に3つの交響詩を残しています。同時に、ロシア国民楽派のグリンカのオペラへの感動から民族色豊かな作品への創作意欲も高まっていました。ここで構想されたのが今回取り上げる連作交響詩「我が祖国」です。「我が祖国」は、同時期に作曲された歌劇「リブジェ」と相互補完的なチェコ民族の記念碑的なオーケストラ曲として位置づけられていたと考えられています。「リブジェ」はチェコ王朝の建国についての物語で、女王リブジェの語る国の英雄や指導者たち、そして国や人々にもたらされるであろう輝かしい未来の予言で締めくくられます。このオペラで描き切れなかった祖国の歴史のさまざまな側面を連作交響詩のなかで表現しようとしたのではないでしょうか。「我が祖国」と「リブジェ」には共通したモティーフも登場しています。
初演の成功とスメタナの最期
全6曲の同時初演は1862年11月5日にプラハで行われ、大成功をおさめました。残念ながらこのころのスメタナは完全に聴力を失っていたのです。大好評をおさめた自身の曲の演奏を聞くことは叶いませんでしたが、この大きな成功に彼はこころから満足していたといいます。これは彼が亡くなる一年半前のことでした。スメタナが夢みた新しい栄光の日の到来(念願の再独立)は、この曲が書かれてから、さらに長い歳月を待たなければならなかったのです。
(Vn.4 森 雄一朗)