グスタフ・マーラー
グスタフ・マーラーのその⽣涯を表す⾔葉として、「私は三重の意味で故郷がない⼈間だ。オーストリア⼈の間ではボヘミア⼈、ドイツ⼈の間ではオーストリア⼈、そして全世界の国⺠の間ではユダヤ⼈として」という⾔葉があります。
幼少期
グスタフ・マーラーは 1860 年 7 ⽉ 7 ⽇にボヘミアの⼩村カリシュトに⽣まれました。彼には 14 ⼈の兄弟がいたのですが、当時は⼦供の⽣存率は現在よりも圧倒的に低く、1 ⼈いた兄は早世してしまったので次男であったマーラーは実質的に⻑男として育てられました。カリシュトでの暮らしは決して⻑くなく、1860 年 10 ⽉にマーラーの⽗ベルンハルトは、妻マリー、そしてわずか⽣後 3 ヶ⽉のグスタフを連れて、時はオーストリア帝国の中⼼都市の⼀つであったイーグラウ(現在のチェコのイフラヴァ)に移り住みます。
当時の社会情勢について触れておくと、18 世紀末ごろからはユダヤ⼈に課されていた職業選択、結婚、居住地や税⾦⾯などでの制約は徐々に撤廃され、オーストリア領内でもその動きが広まりつつありました。1860 年にはユダヤ⼈に任意居住権が与えられ、1867 年には全ての制約が撤廃されることとなります。この撤廃により、ユダヤ⼈がそれまで⾼利貸しくらいしかまともな職業として選ばれなかったところを、今までユダヤ⼈が従事してこなかった職業にも就くようになります。しかし、例えユダヤ⼈が権利⾯で対等になり、いくらユダヤ教からキリスト教に改宗しようと、当時の⾮ユダヤ⼈たちはそのユダヤ⼈と共⽣することはなく、結果としてワーグナーの出版した「⾳楽におけるユダヤ性」に⾒られるようなユダヤ⼈憎悪につながってしまいます。このことに関して、マーラーと同時代のウィーンのユダヤ⼈作曲家アルトゥール・シュニッツラーは、
「銀⾏家であれ貧⺠であれ、王党派であれ⾰命家であれ、どうあってもユダヤ⼈は憎まれるため、我々としては無感覚、鈍感、厚顔でいるか過敏、臆病になり、迫害されているという感情に苦しむかのいずれかしかない」
と嘆いています。
グスタフ・マーラー
イフラヴァの位置(Google map より)
若き活躍の⽇々
さて、イーグラウに移住したマーラー⼀家ですが、若きグスタフ少年にとってこのイーグラウ時代は⼤変重要なものとなります。グスタフ少年がどのように⾳楽と出会ったかについて詳細は分かっていませんが、4 歳のグスタフ少年が祖⽗⺟の家の屋根裏にあるピアノを⼀⼈で弾いていたというエピソードや、アコーディオンを⼿に⼊れたグスタフ少年が家の前を通った軍楽隊についていき、⾏き着いた街中の市場にてアコーディオンを弾いてみせたというエピソードがあります。このエピソードから、当時イーグラウに駐屯していた軍楽隊が彼にとって相当な影響を及ぼしていたことがわかります。前述の通りマーラーの最初の⾳楽の始まりは明確には分かっていないものの、彼は聖歌隊に参加したり、イーグラウ市⽴劇場での演奏会に 10 歳にしてピアニストとして登場したりしていました。そして 15 歳の時に、ウィーン⾳楽院ピアノ科主任のユーリウス・エプテンシュタインのもとに向かいます。もちろんそれはピアノの演奏を聴いてもらうためで、そこで⾃⾝の⾳楽的才能をアピールしたマーラーは、エプテンシュタインの強い推薦のもと、⽗親を説得して⾳楽の道に進むことを確たるものにしました。
1875 年にウィーン⾳楽院に⼊学したマーラーは、ピアノをエプテンシュタインに、和声学を作曲家兼教授で、シベリウスの指導もしたロベルト・フックスに、対位法と作曲をヤナーチェクの師でもあるフランツ・クレンに学びます。マーラーはウィーン⾳楽院在学中には数多くの賞を演奏、作曲の両部⾨で受賞し、そこで断章ではあるものの、唯⼀現存する室内楽であるピアノ四重奏も作曲しました。
⾳楽院を卒業した後は指揮者として活動しながら、合間を縫って作曲活動に取り組むことになります。1880 年の 11 ⽉には作品番号 1 番をつけたカンタータ『嘆きの歌』を完成させ、翌年にベートーヴェン賞という作曲コンクールに挑戦します。『嘆きの歌』は全 3 部からなるカンタータで、とある王⼥との婚約を巡って兄が弟を殺し、そしてその殺された弟の⾻から作られた笛が兄と王⼥の婚礼の宴で全ての告⽩を⾏い、城が全て廃墟になってしまうストーリーとなっています。残念ながらこの作品はベートーヴェン賞を落選してしまいますが、マーラーはその発表の数ヶ⽉前からライバッハの劇場での楽⻑としての仕事を始めていました。
このライバッハでの仕事をはじめとして、マーラーは数多くの劇場の学⻑を転々とすることになります。当時は作曲家に⽀払われる著作権料というのは低く抑えられており、例えどんなに有名な作曲家、それこそ R.シュトラウスやブルックナーも指揮者やオルガニストとしてのいわゆる下積み仕事を多くこなさなければなりませんでした。⼀⽅でマーラーは、その有能さから、そしてブルジョワジーのシンボルとして各地に歌劇場が数多く建てられたことによる指揮者の「売り⼿市場化」から、引く⼿数多の状況でした。マーラーはその完璧主義かつ理想主義な性格によりオペラのシーズン中は指揮活動に専念せざるをえず、5 ⽉から9 ⽉の夏休みの間でのみ作曲活動を⾏っていました。ちなみに当時のオペラハウスは、現在のように純粋に芸術を楽しむための社交場といったスタンスではなく、ボックス席では逢引が⾏われ、男たちはバレリーナの品定めを⾏い、観客に混じって雇われたサクラが⼤声で喝采をあげるといった状態で、現在と⽐べてかなり⾵紀が乱れていました。ですからそのような歌劇場で楽⻑をしていた時代に、当時唯⼀「マトモ」な歌劇場だったバイロイト祝祭劇場をマーラーが訪れた際の感動は相当なもので、彼がそこで 1883 年夏に鑑賞した『パルジファル』の感想を書いた⼿紙から⾒てとることができます。
バイロイト祝祭劇場
さて、同年の秋からはドイツ中部に位置するカッセルの歌劇場にて、副指揮者としての職につくことになります。あくまで副指揮者であったために、彼はそこで思い通りに⾳楽活動をすることができず、そこに訪れた当時の⼤指揮者ハンス・フォン・ビューローに連れ出してくれないか、と懇願したほどでし。しかしこの願いは叶いません。さて、マーラーは恋多き男であったのですが、カッセルでライバッハ時代から知っていたソプラノ歌⼿ヨハンナ・リヒターと再会を果たします。マーラーは彼⼥に⽚思いをしていたのですが、どうやらその気持ちを伝えるまでもなく失恋に終わったそうでした。マーラーは友⼈フリードレヒ・レーアに宛ててこの失恋についての⼿紙を書いており、そこには⾃⾝の失恋の様⼦の描写とともに、「さすらう若⼈の歌」についても書かれています。
僕は歌のツィクルスを書いた。とりあえず 6 曲だが、全て彼⼥(ヨハンナ・リヒター)に捧げられたものだ。彼⼥はこれらの詩を知らない。でも、この詩が彼⼥に告げているのは、彼⼥の知っていること以外のなにものでもない。
カッセルの位置
ただしここで書かれている「歌」とはあくまで詩のことで、6 曲のうちから 4 曲を抜粋して「さすらう若⼈の歌」が作曲されました。しかしそのような悲劇的な出来事の直後、具体的にはこの⼿紙が書かれた約⼆⼗⽇後には、喜ばしいニュースがマーラーの⼿紙に書かれています。そのウィーン在住の友⼈に宛てた⼿紙では、プラハ、そしてライプツィヒ歌劇場との契約締結に成功した旨を知らせています。しかもいずれの歌劇場もカッサウとは違い、当時(そして現在でも)、ヨーロッパでトップクラスの歌劇場です。弱冠 24 歳にしてマーラーは本⼈⽈く「登る階段はもうあまり多くない」地位にまで就くことになります。カッセルでの時代のトリを飾るのは⾳楽祭でのメンデルスゾーンのオラトリオ『聖パウロ』の演奏でしたが、それに対して良い印象を抱かなかったのは⾸席楽⻑(正指揮者)のヴィルヘルム・トライバーでした。地元の新聞には「ドイツ⼈が汗⽔垂らして苦労し、その栄誉だけをユダヤ⼈がかっさらう……」などとまで書かれてしまいます。トライバーの圧⼒により、上演は中⽌の危機までに追い込まれるのですが、なんとか⼈をかき集めて成功までこぎつけ、マーラーは⽉桂冠と⾦時計を受け取ってカッセルをあとにします。
プラハ、ライプツィヒ、そしてブダペストへ
次にマーラーが就任したプラハでは、歌劇場がいくつか存在しており、マーラーの就任したのはドイツ劇場でした。しかし、やはりチェコというだけあって、スメタナ やドヴォルザークのオペラをチェコ語で上演する国⺠劇場の⽅が⼈気で、ドイツ劇場は財政的にも集客的にも厳しい状況でした。そんな状態を解消するために新たな⽀配⼈がマーラーの就任と同時期に赴任してきます。マーラーはプラハでも副指揮者というポストでしたが、正指揮者の無欲さによって、ドイツ・オペラのほとんどを実質的に任せられることになります。プラハでの⼈間関係はカッサウ時代とは違って良好でしたが、ライプツィヒでの契約があるためにわずか 1 シーズンでプラハを去ります。
ライプツィヒでは、正指揮者はわずか 5 歳年上の名指揮者アルトゥール・ニキシュでした。彼はマーラーとは対照的な指揮者であったため、そんな⼆⼈の名指揮者が同じ歌劇場に着任してライプツィヒの観客たちは⼤盛り上がりだったでしょう。やがてニキシュが健康上の理由から職を退くと、マーラーに正指揮者のポストが回ってきました。彼は年間で 200 回以上の公演を指揮するのみならず、ウェーバーの未完のオペラ『3 ⼈のピント』の補筆完成にも取り組みます。彼にその仕事を依頼したのはウェーバーの孫にあたるカール・フォン・ウェーバー⼤尉だったのですが、なんとマーラーはその妻マーリオンと不倫してしまい、駆け落ち⼨前のところまでいったそうです。なおウェーバー⼤尉からしてみるとたまったものではないですが、⼀⽅でこのことが公になると軍をクビになってしまうために公にすることもできず、随分と精神的にも参っていたようです……。そして公私ともに充実(?) していたマーラーは、1888 年 3 ⽉には交響曲第 1 番の原型となる『2 部からなる交響詩』を完成させます。しかし、これにより指揮者としての活動が疎かになっていたマーラーは、舞台監督との衝突を機に正指揮者としての職を辞することを伝えます。次のポストがその時点で決まっていたわけではないそうですが、オファーはすぐに来て、ブダペストのハンガリー王⽴歌劇場にて正指揮者よりも上の監督の職に就きます。
ライプツィヒ歌劇場
ハンガリー王⽴歌劇場は当時建てられたばかりの歌劇場で、各地からスター歌⼿を呼んでくるシステムを取っていたため、同じ公演で 2 カ国語以上が⼊り混じることが通常でした。マーラーは就任当初に上演⾔語をハンガリー後に統⼀し、オペラ座のお抱え歌⼿をメインに起⽤することに決めます。指揮者としてのマーラーはこのように改⾰をした⼀⽅、作曲家としてのマーラーはまず 1889 年 11 ⽉に 3 つの歌曲を披露します。そして、同じ⽉の半ばには『2 部からなる交響詩』の初演をブダペストで⾏います。詳しくは作品⾃体の解説の交響詩「巨⼈」のページに書いていますが、マーラー本⼈⽈く不評ではあったものの、賛同者もいたのは事実であり、賛否両論だったようです。このブダペストでのマーラーの⽣活のプライベート⾯に⽬を向けると、かの有名な伝記「グスタフ・マーラーの思い出」の作者ナターリエ・バウアー・レヒナーと出会ったのも 1890 年のブダペストでした。彼⼥はマーラーが結婚するまでの 10 年ほどいわばプラトニックな関係にあり、彼が唯⼀作曲できた夏の間に⾏動をともにしていました。さて、マーラーのブダペストでの契約は 10 年契約だったのですが、歌劇場の⽀配⼈の交代とともにマーラーの権⼒縮⼩が⾏われ、そのことをきっかけに契約満了を待たずにマーラーはブダペストを離れます。
ナターリエ・バウアー・レヒナー
ハンブルク時代
次にマーラーが職についたのは現在でも世界トップクラスのオペラハウスであるハンブルク州⽴歌劇場、通称「シュターツオーパー」でした。そこでは当時の世界的⼤指揮者ハンス・フォン・ビューローと同僚になります。彼は⾃⾝の半分ほどの年齢のマーラーをとても可愛がり、その称賛のほどは娘宛の⼿紙にも現れています。⼀⽅で、彼はマーラーの作曲した作品には理解を⽰さなかったのですが、ビューローの死によってマーラーが交響曲第 2 番『復活』のインスピレーションを得たのは⽪⾁なことでしょう。1894 年 3 ⽉に執り⾏われたビューローの葬式の時点で、『復活』の作曲は終楽章を除きほとんど終わっていましたが、終楽章で導⼊予定の声楽の歌詞を探しあぐねていました。マーラーはビューローの葬式について、のちにこう述べています。
私は⻑い間、終楽章に合唱を導⼊しようという考えを抱いていましたが、ベートーヴェンの上辺だけの模倣と取られかねないという懸念から、何度もそれを躊躇っていたのです!ちょうどそんなとき、ビューローが亡くなり、私はここハンブルクで彼の葬式に参列しました。――私が死者を偲びながら座っていた時の気分は、まさしく私があたためていた作品の精神そのものでした。――その時、合唱がオルガン⽯からクロプシュテットのコラール「汝、蘇らん」を歌い始めたのです!それは稲妻のように私を貫きました。そして全てがくっきりと、明確な姿をとって私の魂の前に⽴ち現れました!創作者とは、このような稲妻を持っているもの、これが「聖なる受胎」なのです!
ハンス・フォン・ビューロー
こうして 1891 年に始まった 3 年間に渡っての悩みは解消され、マーラーはその後わずか3 ヶ⽉で『復活』を完成させます。全 5 楽章の初演は 1895 年 12 ⽉にベルリンにて⾏われ、⼤成功だったようです。こうしてマーラーはベートーヴェンの呪縛を打ち破ることに成功し、交響曲の作曲家としての第⼀歩を踏み出します。
晴れてベートーヴェンの呪縛から解放されたマーラーは、続く交響曲第 3 番をわずか 2 年間で書き上げてしまいます。2 年間とはいえど、交響曲第 3 番が第 1 楽章だけで演奏に 30分以上かかる⻑⼤な作品であること、マーラーが夏休みだけで作曲していたこと、そしてさながらブラームスが交響曲第 1 番を作曲した時のように、『復活』の作曲にに何年もかけたことを考えると、これは相当短い期間だったと⾔えるでしょう。1896 年の交響曲第 3 番の完成後、マーラーはブダペストでの職を辞め、ついにウィーン宮廷歌劇場に就任することになります。そのウィーンへの出発前、1897 年 2 ⽉にマーラーはブダペストのカトリック教会で洗礼を受け、ユダヤ教からキリスト教へと改宗します。もちろんユダヤ教であったこと⾃体が様々な⾏動の障壁となることが主な理由でしょうが、こういった出来事からも、マーラー⾃⾝の「ユダヤ」というステータスに対する⾒⽅を知ることができます。
ウィーンデビュー
ウィーンでのデビューは 1897 年 5 ⽉、『ローエングリン』の上演でした。もちろん公演は⼤成功で、マーラーはそのデビュー公演からしてウィーンの観客の⼼を掴んでしまったのでしょう。ウィーン宮廷歌劇場の常任指揮者としてのセンセーショナルなデビューを飾ったマーラーは、1898 年からウィーン・フィルハーモニーの指揮者も兼任することになります。ちなみに 1901 年には、後の⼤指揮者ブルーノ・ワルターを歌劇場に招きます。ウィーン時代には、マーラーは妻アルマとの出会いを果たします。彼⼥との最初の出会いは 1901 年 11⽉、とあるサロンにおいてだったのですが、マーラーは当時 41 歳、アルマは 22 歳でした。しかしマーラーはそのような歳の差は気にせず、その 2 週間後にはなんと求婚までしてしまいます。アルマは決して弱い⼥性ではなく、少しでも男性が下⼿に出ればすぐに⽀配する側に回ってしまうような⼥性だったのですが、そのようなアルマを屈服させるほどの⽀配欲がマーラーにはあったのでしょう。1902 年 3 ⽉、マーラーとすでに妊娠 3 ヶ⽉のアルマは結婚式を挙げます。
この世紀の変わり⽬の辺りの時期に、マーラーは交響曲第 4 番から第 8 番を⼀気に書き上げます。1899 年から 1901 年にかけて交響曲第 4 番を、1901 年から 1902 年にかけて交響曲第 5 番を、1903 年から 1905 年にかけて交響曲第 6 番を、1904 年から 1905 年にかけて交響曲第 7 番を、そして 1906 年には交響曲第 8 番を作曲します。また、この時期からシェーンベルクとツェムリンスキーがマーラーの家を度々訪れ、⾳楽談義を交わすようになります。マーラーはたとえシェーンベルクの⾳楽を理解できなかったとしても、彼を擁護した――例えばシェーンベルクの⼤不評の⾃作のコンサートでも唯⼀最後まで拍⼿をし続けた―― のは有名な話でしょう。
アルマ・マーラー
運命の打撃
上記のように名実ともに絶頂にあったマーラーですが、交響曲第 6 番についてのアルマの表現を借りるならば、「運命の打撃」を 3 度受けることになってしまいます。
まず第 1 に、1907 年にマーラーはウィーン宮廷歌劇場と仲違いしてしまいます。理由としては、マーラーが様々な都市に指揮活動をしに⾏ってウィーンを留守にしがちであったこと、そしてそれによる演奏クオリティの低下でした。ジャーナリズムのアンチマーラー・キャンペーンも始まり、遅くとも 6 ⽉頃には辞任の申し出がなされ、11 ⽉には引退公演を⾏います。
第 2 の打撃は、⻑⼥マリア・アンナの死です。次⼥アンナ・ユスティーネからの猩紅熱の感染のみならず、ジフテリアも併発してしまい、わずか 4 年と 8 ヶ⽉で命を落とします。彼⼥は⿊髪⻘眼とマーラーそっくりで、最愛の娘を失ったマーラーの悲しみは計り知れなかったでしょう。⽪⾁にも、『亡き⼦をしのぶ歌』完成の 3 年後の出来事でした。
それに追い討ちをかけるように第 3 の打撃、マーラーの⼼臓疾患の判明が起きます。現在では誤診と⾔われることもあるこの診断ですが、娘を失った直後のマーラーに⾁体的のみならず⼼理的にダメージを与えるのには⼗分でした。
マーラーの 9 番⽬の交響曲『⼤地の歌』以降は、これらの出来事の後に作曲されました。これらの厭世観に囚われたような内容の作品を書いた理由が、果たしてこれらの出来事にあるのか、それとも全く関係なしに偶然気に⼊った詩であったからかは不明ですし、断⾔もできませんが、⽪⾁にもマーラーの⼈⽣は彼⾃⾝の芸術を模倣することになります。
アメリカ時代
時は前後しますが、1908 年の元旦に、マーラーはニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場でのキャリアを開始します。カリスマ的な名指揮者であったマーラー、そして聡明美⼈であったアルマはともに劇場内、そして社交場において⼈気であったようです。1909 年にはニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者にも就任します。1909 年夏は、マーラーはひとりでトーブラッハ(現在の北イタリアの国境近く)に向かい、交響曲第 9 番を完成させます。同年秋、再びニューヨークに戻ったマーラーはニューヨーク・フィルハーモニックの主席指揮者としての、初めての定期演奏会に挑みます。
メトロポリタン歌劇場
1910 年になると、死の影が徐々に差してきます。1910 年夏、神経症の転地療養のためにアルマと娘をリンツ近郊のトーベルバードに送り出します。アルマはここで⻘年建築家ヴァルター・グロピウスと恋仲になるのですが、なんとこの⼿紙がマーラーの⼿に渡ってしまいます。マーラーはアルマが⾃分の⼿から離れてしまう恐怖に苛まれ、挙げ句の果てには「⾃分の罪」をすべて認めた上で、アルマに平伏してしまいます。アルマは⾃⾝を⽀配する強い男を求めていたため、彼⼥は草⾷獣のように弱くなってしまった⾃⾝の夫に興味を失ってしまいます。この⼿紙はマーラーにとって相当ショックだったらしく、同年夏に取り組み始めていた交響曲第 10 番の草稿にはいくつかの書き込みが⾒られます。第 3 楽章には「哀れみたまえ!おお、神よ!おお、神よ、何故あなたは私を⾒捨てられたのですか!」、第 4 楽章には「悪魔が私と踊る、狂気が私を捕らえる、呪われたる者!私を滅ぼし、⽣きていることを忘れさせてくれ!」、そして第 5 楽章には「君のために⽣き!君のために死す!アルムシ!(アルムシとはアルマの愛称のこと)」と書かれています。
ヴァルター・グロピウス
プライベートではショッキングな出来事があったマーラーですが、公の場では交響曲第 8番の初演にて⼤成功を収めます。初演は 1910 年 9 ⽉にミュンヘンにて⾏われ、舞台上には指揮者含め 1030 ⼈の奏者が勢揃いしました。初演時の評判は、批評家パウル・シュテファンの⽂章を引⽤します。
最後の⾳が消えてゆくと、静寂が続いた。突然、聴衆も演奏者も⼀緒になった 4000 ⼈の⼤喝采が爆発した。嵐のような熱狂は 30 分近く続いた。300 ⼈の⼦供たちも平静さを失って、すっかり途⽅にくれている勝利者マーラー⽬掛けて、四⽅⼋⽅から押し寄せ、花を渡したり、⼿に縋り付いたりした。外では⾞が待っていた。しかし、これまでほとんど味わったことのない幸福感を満⾯にたたえたマーラーが出てきても、まだ興奮している観客の間には、徐々にしか道が開けなかった。彼はおそらくこの時、その⽣涯の絶頂、名声の絶頂に達したのだった。
1910年9 ⽉ リハーサル⾵景
死
しかし、⽣涯の絶頂に達したマーラーには残り 8 ヶ⽉ほどしか時間が残されていないのでした。マーラーは年があけた 1911 年 2 ⽉に倒れ、⾎液検査の末に溶⾎性連鎖球菌が発⾒されます。おそらく前年から度々起こしていた扁桃炎で扁桃腺に菌がとりついていたのでしょう。菌は⼼臓にまで回り、⼼内膜炎をも引き起こします。回復の⾒込みがないことを悟ったマーラーは、ウィーンで死ぬことを望み、4 ⽉にニューヨークを発ちます。5 ⽉ 12 ⽇にウィーンに到着し、5 ⽉ 18 ⽇にマーラーは 50 歳にして息を引き取ります。最期の⾔葉は「モーツァルトル!(南ドイツ・オーストリアの⽅⾔で、モーツァルトの愛称系)」だったとされます。
最後に
マーラーの死後、ヨーロッパではナチス・ドイツの台頭により、情勢は反ユダヤに傾いていきます。これによりユダヤ⼈は追放、もしくは亡命せざるをえず、ユダヤ⼈であったマーラーの作品も全く演奏されなくなります。マーラーの再評価が起こったのは、⽣誕 100 年後頃、バーンスタインによるニューヨーク・フィルとの全曲演奏の録⾳がきっかけでした。⽇本においては 1980 年頃から 20 年間ほどマーラー・ブームが起こり、⼀時期は来⽇するオーケストラがマーラーしかやらないという時代もあったほどです。現在では、そのようなことは無くなったものの、決して悪いことではなく、オーケストラにとってスタンダードなレパートリーとして定着したということなのでしょう。最後に、かの有名な「僕の時代が来るだろう」という⼀節が書かれている、1902 年にアルマに送られた⼿紙を引⽤して終わりにしたいと思います。
愛する⼈よ!ちょうど朝⾷をとろうとしているところに、君の愛らしい⼿紙を受け取った。おかげで僕はなんとも⾔いようないほど嬉しくなった。僕も苦痛を感じながら、君の最初の⾔葉を待ちわびていたから。君と別れたせいだけでなく、昨晩の雰囲気が我慢ならぬものだったのだ。R.シュトラウスが撒き散らすあの雰囲気には、全く興醒めだ。(中略) あんな俗悪な世界に迷い込むぐらいなら、君と⼀緒に貧者のパンを⾷らってでも、光の中を歩んでいた⽅がマシだとは思わないかい!やがては⼈々が籾殻を⻨からふるい分ける時が来るのだろう ――そして彼の時代は終わり、僕の時代が来るだろう。僕も君のそばで、その時代を体験できれば良いのだが!でも君、僕の光である君は、きっとその時代を⾒られるに違いない。そして霧を透かして太陽を垣間⾒たこの⽇々をきっと思い出してくれるだろう。
参考文献
グスタフ・マーラーの思い出 ナターリエ・バウアー・レヒナー著 ヘルベルト・キリアーン編 高野茂訳 音楽之友社 1988
決定版 マーラー 吉田秀和著 河出書房新社 2019
(文責:Vn.3 S.M.)